「Society 5.0」批判

May 4, 2018

内閣府のウェブサイトに、Society 5.0という未来社会のビジョンについて説明したページがある。このビジョンは、日本政府の策定する科学技術政策において重要な意味を持つものらしく、国立大学の運営、研究費や助成金の配分、その他様々な国家戦略に幅広く影響するものなのだそうだ。僕は企業の研究者ということもあり、今までこうした国家戦略周りの話には疎かった(本当は、僕の研究活動には2014年から一部公的資金が使われているから、常々きちんと勉強しておくべきだったのだが)。しかし今度の未来社会創造事業の会合でSociety 5.0について意見を述べるよう求められたので、遅ればせながら資料を読み込んでみることにした。

Society 5.0と言うからには、当然1.0、2.0などその前段階のSocietyつまり社会がある。資料によればSociety 1.0は狩猟社会、日本の歴史で言えば縄文時代までの社会のことだろうか。その次のSociety 2.0は農耕社会、Society 3.0は産業革命以降の工業社会を指すらしい。そしてSociety 4.0が現在我々が暮らす情報社会、Society 5.0はその先に来るまだ見ぬ社会ということだ。正直に言うと、情報社会化というのはまだ発展途上のプロセスだと思うので、これまでの黎明期的な情報社会をSociety 4.0と呼び、近未来を5.0と呼んでしまうのは若干気が引ける。現在の社会がSociety 3.8〜3.9あたり(つまり情報化が完成しつつある段階)で、もう少しすると本格的なSociety 4.0が来る、といった理解の方がしっくりくるのだが、まあそれは本質ではないだろう。大事なのは4.0や5.0といった数字ではなくて、このSociety 5.0と呼ばれている社会の具体的なイメージが、来る未来社会の本質をきちんと言い当てられているかどうかなのだ。

内閣府のページによると、Society 5.0の定義は以下の通りだ:

「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」

前半の「仮想空間と現実空間の融合」は、確かにこれからの社会を特徴づけるキーワードになるだろう。情報技術はすでにメディアや小売、コミュニケーションを変え、次の標的として金融を、医療を、都市を、政治をつくり変えようとしている。情報技術の存在を前提とした、社会全体の再創造が今まさに進行しているのだ。内閣府のページでも挙げられている様々な要素技術、たとえばIoTや自動運転、AIなどは、当然こうしたプロセスの原動力になるだろう。後半の「経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会」は、ただの耳触りのいいお題目的な響きは若干するものの、技術開発が目指すべき目標として異論はない。

というわけで、大枠ではこのSociety 5.0というビジョンに僕は全面的に同意する。ではより具体的に、Society 5.0ではどのような技術が新しく登場し、それらはどのように我々の生活を変えていくのだろうか?

政府広報のページに、いろいろ具体的なシナリオが載っているのでざっと挙げてみよう。(追記:2020年現在、このページは取り下げられているようだ。かなり重いが、こちらにWayback Machineのアーカイブがある。)

・ドローンが宅配をしてくれるので、配送業者がいらなくなる
・AI冷蔵庫が人の代わりにレシピを考えてくれる
・ロボットが普及するので、介護や重労働を人間が行う必要がなくなる
・クラウド上のサービスが会計業務を代行してくれる
・車の自動走行が実現するので、運転手が必要なくなる

あれ?人がいらなくなるシナリオばかりのような気が。確かに、AIやロボティクスなどが進化すれば、現在人が担当している作業の大部分は自動化できるのかもしれない。しかし「人間中心」を謳う割に、その結果新しく生まれる時間や余暇を使って人が何をやるのか、自動化が進んだ社会における人の役割が何であるのか、といった事柄に関する記述が見当たらない。技術革新による仕事の消滅が現実的な問題として危惧され世間を騒がせている今、これは不可解な見落としだ。人が無用になるビジョン、AIやロボットの提供する様々なサービスの消費者として以外に人の能動的な役割を見出せない社会のビジョンは、目指すべき「みんなの」未来像ではありえない。

この見落としは、Society 5.0というビジョンにおけるもうひとつの重要な見落としと関係している。それは、ソーシャルメディア(的なもの)に対する言及が一切ないということだ。ドローンやAI、自動運転などが今後どのように進化していくかについては詳細にイメージされているが、TwitterやFacebook、YouTubeといった「メディアとしてのIT」、また同じく参加型のシステムであるクラウドソーシングやクラウドファンディングなどといった仕組みが今後どのように発展し社会を変えていくか、このビジョンの中には記述が見当たらない。しかし米国において、2016年の大統領選の一部始終においてFacebookが果たした役割について現在も激しい議論が展開されていることからも分かるように、ソーシャルメディアが社会に与える影響というのは甚大だ。良くも悪くも、未来の社会を形作る基盤技術として、たとえばドローンなんかよりはよほど重要だろう。

なぜこのような見落としが生まれてしまったのだろうか?おそらくその理由は単純だ。AIやロボティクスといった技術は、現在急激な発展を見せてはいるものの、概念としては案外古くから存在するものだ。1960年代には「鉄腕アトム」の放送が始まり、「2001年宇宙の旅」が公開されている。つまり今年還暦を迎えるような世代の人たちが少年少女だった頃には、すでにAIやロボティクスが実現する未来のイメージが、アニメや漫画、小説、映画などといった形で鮮やかに描き出され、広く世間に流通していた。だからAIやロボティクスが拓く未来のイメージというのは、あらゆる世代の人にとってある程度想像しやすいのだ。

対してソーシャルメディアというのは、過去のSF作品などの中であまり予見されることなく、世紀の変わり目あたりにポッと出てきた新しい技術だ。「ランチに何を食べたかなんて、全世界に公開して何が面白いんだ」などと訝しむ人々を横目に、すっかり世の中に浸透してしまった。そのような新しい技術であるがゆえに、ソーシャルメディア(的なもの)が今後どのように社会を変えていくかについて、これまでのところ我々は想像力を鍛える機会を十分に与えられていない。我々の大多数にとってソーシャルメディアは未だ謎めいた技術であり、その将来像をイメージすることは難しい。

仮にこのSociety 5.0というビジョンが、巷でデジタルネイティブなどと呼ばれるような現在20代くらいの若い世代を中心に編纂されたものであったなら、こうした見落としは起こらなかったかもしれない。しかし国の科学技術戦略の根幹をなすビジョンの構築を、大学を卒業したての若者に任せるわけにはいかないのだろう。だからこのビジョンが、ソーシャルメディア(的なもの)に対する言及を欠いていることは仕方のないことかもしれない。しかし理解はできるとしても、重大な見落としであることに変わりはない。そしてAIやロボティクスは、ものすごく雑に言ってしまうとそれぞれ人間の知的労働、身体的労働を肩代わりしてくれる技術なのだから、それらの技術(のみ)の発展により実現される未来像において、人の役割がうまく見出せないことは当たり前だろう。

(余談になるが、AIやIoTやビッグデータのみに基づいたビジョンが人にとって魅力的な環境につながらないことは、韓国のソンドやUAEのマスダール・シティなど、いわゆる「スマートシティ計画」の現状から読み取ることができる。このあたりの議論は、アダム・グリーンフィールドリチャード・セネットらの書籍や、僕が以前編集した冊子「未来都市アトラス」アレックス・ウォッシュバーンの文章アンソニー・タウンゼントの文章などを読むと分かりやすいだろう。)

ソーシャルメディアをはじめとした参加型の仕組みがSociety 5.0において果たす役割について、我々は積極的に考え始める必要がある。TwitterやFacebookはグローバルな情報発信の権限を、ごく一部のマスメディアから「みんな」の側へと移譲した。それは新しい自己表現やコミュニケーションの形、新しいジャーナリズム、新しい社会運動などを生み出したが、同時にクリックベイトやフェイクニュースなどの隆盛にもつながった。同じような参加型の仕組み、権限移譲の仕組みは、クラウドファンディング、フリマアプリ、シェアリングサービス、仮想通貨などの形で、現実社会のあらゆる側面へと浸透を開始している。Society 5.0の定義にある「仮想空間と現実空間の融合」は、当然ソーシャルな仕組みにも同様に適用されるのだ。そしてこの流れは止めることができない。人々が今からYouTubeを手放して、テレビ局だけが映像発信の権限を持つ時代へと逆行することを受け入れる可能性はゼロだ。

このような多面的な権限移譲のプロセスは、うまく操縦できればより民主的な、「みんな」の叡智を効率的に吸い上げ活用する新しい社会の設計原理の構築へと結びつくかもしれない。しかし逆に、Brexitの国民投票で見られたような混乱と暴走をもたらしてしまうかもしれない。ソーシャルなプロセスはどうせ未来社会の一部を構成するのだから、その存在を前提とした上で最善の社会設計を我々は志向する必要がある。

僕の私見を言えば、Society 5.0における人間の最も重要な役割は、社会の主権者そして設計者としてのものになるだろう。内閣府のページによると、Society 5.0では「必要なモノやサービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供」することが可能になるという。しかしジェイン・ジェイコブズの言葉を借りれば、「みんな」に必要なものを提供できる社会は、「みんな」でつくり上げなければ決して実現することはない。地域や年齢、性別などの差異によって排除されることなく、誰もが自分にとって必要なモノを入手でき、必要なサービスを享受できる社会は、今よりも高度で広範な参加型のシステムの構築なしには実現しない。だからWikitopiaのような実験が必要なのだ。現状の、人が単なるサービスの消費者に貶められているSociety 5.0というビジョンは、人間中心というテーゼにより忠実な形へと再編されなくてはならない。


竹内雄一郎
計算機科学者。トロント生まれ。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所研究員、および一般社団法人ウィキトピア・インスティテュート代表理事。東京大学工学部卒業、同大学院新領域創成科学研究科博士課程修了、ハーバード大学デザイン大学院修士課程修了。ニューヨーク大学クーラント数理科学研究所客員研究員、科学技術振興機構さきがけ研究者等を経て現職。情報工学と建築・都市デザインの境界領域の研究に従事。

YUICHIRO TAKEUCHI is a Toronto-born, Tokyo-based computer scientist whose work explores the intersection of digital technology and architecture / urban design. Currently he works as a researcher at Sony Computer Science Laboratories Kyoto, and also directs the nonprofit Wikitopia Institute. He holds a PhD in Informatics from The University of Tokyo, and an MDes from Harvard Graduate School of Design.