突然のボストン事変の勃発を受けて一時は開催が危ぶまれたWikitopiaワークショップであるが、友人たちの助けもあり、ありがたいことに先週無事開催することができた。Boston Architectural Collegeというボストン市内の建築大学が部屋を貸してくれて、そこに近隣で働く建築家、アーバンデザインを含む様々な分野のデザイナー、草の根活動家、そしてハーバードやMITの研究者たちなど計20人ほどの多様なメンバーが集まってくれた。年齢も20台から50台までと幅広く、また3分の1は女性だ(本当は半数集めたかったが)。当日の様子は、映像を結構撮ったのでそのうち編集してYouTubeのWikitopiaチャンネルにアップしようと思う。
結果として、思わぬトラブルのせいで当初イメージしていたよりも小規模な集まりになりはしたが、雨降って地固まるというか、長期的なプロジェクトの成功を考えるとかえってこの方がよかったという気がする。当初の予定では、ハーバード大学の教授のツテで人を大勢集める計画だった。しかし今回実際に集まってくれたメンバーは、僕や友人が直接コンタクトを取った結果来てくれた(それも平日の真っ昼間に!)人たちだ。良くも悪くも権威とはまるで無縁の我々の誘いに応えてくれたのだから、Wikitopiaプロジェクトの内容そのものに反応してくれたと見るのが正しいだろう。ハーバードの先生に頼ればもっと人は大勢集められただろうが、それだと質より量で、参加者のうちWikitopia(=みんなでつくる未来都市)というテーマに強く共鳴してくれる人の割合は案外低くなっていたのではないかと思う。
実際、今回のワークショップに来てくれた人たちの熱意は相当なもので、今ちょうど彼らのうち数人と共同で、ボストン市政府に提出するプロポーザルを準備しているところなのだ。これが通れば、Wikitopiaの実験を日本だけでなくボストンでも行うことができる。
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ところで、ボストンのホテルで夜YouTubeをつけっぱなしにしていたら、いつの間にかケニー・オメガというプロレスラーの短いドキュメンタリーが流れていた。カナダ出身の選手で、今は新日本プロレスに所属して東京に住んでいるらしい。僕は別にプロレスに興味はないし、YouTubeでは大体音楽かテニス関連の動画くらいしか見ていないから、何がどうなってこの動画にたどり着いたのかは分からない。僕がケニー・オメガと同じく、カナダ出身で東京に住んでいるからだろうか?さすがにそんなわけはないか。そんなことを思いながらしばらく見ていると、予想以上に面白くてすっかり引き込まれてしまった。結局このドキュメンタリーだけじゃなくて、出張中に仕事の合間を縫って試合だとかインタビューだとか、プロレス関連の動画を10か15くらい見た気がする。
僕はプロレスというと往年のジャイアント馬場あたりのイメージで、大男が二人リングの上で、お互いを殴っているフリや投げているフリをしたり、大袈裟に痛がってみせたりするものだと思っていた。そのイメージ自体は別に間違っていないのだろうが、今回いろいろ動画を見て新しく発見したことが二つある(どちらもプロレスファンからすれば何を今更、といった話なのだろうが)。
一つは、プロレスラーというのは驚くほど優れたアスリートだということだ。たとえばケニー・オメガと因縁の深い(?)飯伏幸太というレスラーがいて、彼の得意技のひとつにリング外を向いた状態でコーナーポストに登り、そこから後ろ向きに跳び上がって何回転かしながら相手に体をぶつける技(フェニックス・スプラッシュというらしい)がある。言葉では伝わりにくいが、映像で見ると人間業だとは思えない。しかもこんな危険そうな技を、彼はリングの上だけではなく、路上でも(自販機の上から跳んでいる!)やってしまうのだ。少しでも着地点が狂えば大怪我だろう。また技を受ける方の技術だって相当なものだ。DDTやフランケンシュタイナーなんて僕が受けたら、コロッと首がもげてしまうに違いない。事実、プロレスラーには元オリンピック選手だとか柔道のチャンピオンだとか、他競技でも華々しい実績を上げてきた選手が大勢いるらしい。
もう一つの発見は、プロレスラーにとってはリングの上で見せる動きだけでなく、キャラクターやストーリーラインといった要素も極めて重要だということだ。派閥が生まれたり分裂したり、同盟を結んだり裏切ったりといった、長期的なストーリーが展開されている。抜きん出た技術を持つレスラーでも、うまくその選手を活かすストーリーやキャラクターが見つからないと、なかなか人気が出ないということがあるらしい。今や押しも押されぬ看板レスラーである内藤哲也も、今の(メキシコ風?)キャラクターが見つかるまでは苦労したそうだ。(ちなみに僕はEVILという選手のキャラクターがいいと思う。一度こんな人になってみたい。)
要は、プロレスというのは真実と嘘が混じり合ったものだということだ。リング上で選手が見せるアスレティシズムは間違いなく真実だが、キャラクターやストーリー、試合の勝敗には多分に嘘が混じっている。多分、僕にとってプロレスが面白く思えたのは、虚実が分かち難く入り混じった仕事であるという点に、研究者として一種のシンパシーを感じたからだろう。現代において研究というのはボクシングでも柔道でもなく、プロレスなのだ。
研究者の仕事は新しい技術を発明したり、発見をしたりすることだろうか?確かに、それも仕事の一部ではある。しかし同時に、我々は技術革新のイメージ、進歩のイメージといったものも売っているのだ。そして後者の役割は、今や前者を遥かに凌ぐほど重要になっている。
研究費が黙っていても上から降りてくるのではなく、プロジェクト毎に国や民間団体に応募して都度勝ち取る(そして多くの場合、その審査には専門分野外の人も加わる)システムへと移った今では、魅力的な、いかにもVCあたりが投資したくなるようなイメージを描けない研究者は資金を得られない。また発表される論文数が年々指数関数的に増大している今では、マスメディアやソーシャルメディア上で流通しやすい魅力的なパッケージングが施されていない論文は他の研究者の目に触れず、引用数も上がらない。誰もが必死にマーケティングに勤しみ、自身の研究内容に人を惹きつけるストーリー性を付与し、また自身のキャラクターを際立たせようと工夫している。地味な秀才は、この世界では埋もれる時代なのだ。僕は現在、企業の研究所に籍を置きつつ国の研究プロジェクトの代表も務めるという特殊な立場にある(これは案外都合がよくて気に入っている)が、このような業界全体を支配する潮流から完全には自由ではない。
イメージやマーケティングが重要なのはベンチャーなんかと同じだが、起業家はどこかの時点で製品やサービスを完成させ、収益を生むことが求められる。テスラだって、スペースXだって、マジックリープだってそうだ。しかし研究者は生涯、明確な責任を問われることなく、おぼろげな「未来の可能性のイメージ」だけを売り続けることができる。世の中が研究者に求めているのは真に社会に貢献する発明や発見(実質、サブスタンス)のようでいて、実のところは泡沫的なスペクタクルなのだ。
このような潮流に不満を抱いているわけではない。それが社会の要請なら、適応する以外に選択肢はない。僕が望むのは、僕が生み出す様々なイメージ、スペクタクルに紛れて、少しばかりの実質が残ることだけだ。僕の仕事は、世界中で都市がつくられるそのプロセスに、わずかでもポジティブな影響を与えられるだろうか。