随分昔の話だが、INFOBARなどの仕事で有名な深澤直人先生が教えるデザイン論の講義を履修したことがある。一学期だけ東大で特別講義を担当されていて、当時の僕は真面目な学生ではなかったから講義なんてものはサボることの方が多かったけれど、この講義は面白くて最後まで休まず出席した。一緒に受講していた他の学生たちと連れ立って、原宿にある事務所に遊びに行かせてもいただいた。それぞれ微妙に形の違う、大量の椅子のプロトタイプが所狭しと並んでいて、その間を疲れた顔のスタッフがせっせと行き来していたような記憶がある。デザイナーというのは大変な職業なのだな、とそのとき思った。体力がなく、すぐに眠くなる僕にはとても務まりそうにない。
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深澤先生によれば、いいデザインというのは「必然的にそのような形に収まった」ように見えるものだということだった。人為的な設計行為の結果であるにも関わらず、様々な見えない力の相互作用によって自然にその形が導出されたように思える、「これ以外の形は考えられない、これこそがあるべき形だ」と思えてしまうようなデザインだ。
急な山道の途中、誰もがつかまるので表面がつるつるになっている木の枝があるとする。他にも枝がある中で、なぜその枝ばかりが選ばれるのか?そこには必然性があるのだ、と深澤先生は言う。つかむことでちょうど足を踏ん張りやすい位置にあるのかもしれないし、手のひらでつかみやすい太さや形状をしているのかもしれない。いずれにせよ、その枝は偶然ではなく必然によって選ばれているという。他の枝ではだめで、その枝でしかありえないのだ。
同じように、工業製品のデザインにも、必然性を帯びたものとそうでないものがあるということだ。その製品の機能や素材、製法、使われ方、製品を取り巻く生活、歴史──そうしたありとあらゆるものが見えない力のネットワークを形成していて、それらの力に押し負けることも、逆に圧倒することもなく、うまく張りのある均衡状態をつくり出せるデザインこそが、必然性を帯びた長く選ばれ続けるデザインなのだという。別の言い方をするならば、製品の本質に忠実なデザイン、自身以外の何物かになろうとしていないデザインとでも言えるだろうか。
深澤先生は、そのような必然性を帯びたデザインを「原形」という言葉を使って表現する。原形というのはプラトニズムを彷彿とさせる言葉だが、我々の住むごちゃごちゃとした実社会の外部に普遍的なデザインの理想像(イデア)がある、といった意味合いではなく、そのごちゃごちゃとした実社会の網目の中にうまく「ハマる」、あるいは「しっくりくる」デザインがあるということだ。2002年に出版された「デザインの原形」という書籍では、原形と呼ぶにふさわしいデザインの例として、アルネ・ヤコブセンの時計やカイ・フランクのコップ、レゴブロックやパワーブックG4などが挙げられている。
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以上はあくまで深澤直人先生の持つデザイン観であって、実際のところ世の中には必然性なんてひとかけらも見当たらない、恣意的なデザインもたくさん存在している。むしろそうしたデザインこそを好む人だって大勢いるだろう。ただ工業製品というものは、自由競争の中で日々淘汰の圧力を受ける存在であるわけだから、年月が経つにつれて次第にそのデザインから「角が取れて」、原形に近づいていくというのはイメージとしては腑に落ちる。もちろん、川を流れる石ころのように自然の力によって角が取れていくのではなく、デザイナーによる意図を持った設計と、それに対する市場の反応が積み重なった結果ではあるのだが。
19世紀後半のイギリスでは、機械により安く大量生産された家具がすでに広く一般に普及していたという。職人の手作業によってつくられるビクトリア調家具を拙い技術で無理に模倣したようなもので、あまり出来はよくなかったらしい。しかしその後、20世紀の中盤に入る頃には、工業デザインの主流はビクトリア様式とはまるで異なる、非装飾的なモダニズムへと移行している。手作業を模倣することは放棄され、のっぺりとした幾何学形状を積極的に肯定したデザイン──機械による大量生産品という、製品の本質により忠実な(すなわち、より原形的な)デザインが新たに創出されたのだ。
現在のスマートフォンのデザインは、「光の板」とでも呼べるようなシンプルな形状になっている。どの企業の製品を見ても、表面の大半がスクリーンで占められてしまっているから、遠目ではまったく見分けがつかない。このデザインは、すでに原形に到達していると言って差し支えないだろう。インタフェース・デザインとして理にかなっているだけでなく、情報を処理する端末のメタファーとしても「光の板」というのはしっくりくる。情報は軽やかに、瞬時に世界を飛び回る。光も同じだ。
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ここ数年は新生aiboが発売されたりLovotが発表されたり、再びロボットブーム、より正確にはペットあるいは友達としてのロボット、すなわちコンパニオン・ロボットのブームが到来しているようだ。ホンダのAsimoは昨年夏に開発が中止になってしまったそうだけれど、それを補うかのように多種多様なロボットが次々と登場している。日本だけでなく海外でも、AnkiのCozmoがヒット商品になるなどコンパニオン・ロボットに対する注目度は高い。
こうした製品は目新しいようでいて、ジャンルとしては案外昔からあるものだ。初代aiboが発売されたのは1999年だし、それ以前にもたまごっちだとかファービーだとか、数多くの製品が市場に投入されてきた(もちろん現在の最新型ロボットと比べると、性能面で大きな違いはあるが)。大ブームを巻き起こした製品も多いが、振り返ってみると結局どれも定着はせず、一過性の流行で終わってしまっている。新世代のコンパニオン・ロボットも、同じくいずれは飽きられてしまうのだろうか?それともドラえもんのように長く生活のパートナーとして、苦楽をともにできる相棒になり得るだろうか。
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人工的な知性を持った生活のパートナーというと、別の形としてAlexaやSiriなどのいわゆるバーチャル・アシスタントがある。これらはコンパニオン・ロボットとは異なり、物理的な実体を持たない。家中に複数のAmazon Echoを敷き詰めれば、どこにいようと「Alexa」と一言呼べば反応してくれる。特定の殻の中に収まっているのではなく、知性が空気の中に溶けている感じだ。映画「Her」に出てくるAIのような高度な会話はまったくできないが、天気を教えてくれたり音楽をかけてくれたり、暇つぶしにゲームに付き合ってくれたりとそれなりに役に立つ。
この「形がない」ということが、電子的な知性というものの本質に忠実な、原形となりえるデザインであるように僕には思える。一昔前、ドラえもんなどのロボットアニメが生まれた時代には、まだインターネットもなかったわけだから、AIというものが特定のハードウェア(たとえば「ネコ型ロボット」のような)に内蔵されるものとして想像されたのはごく自然なことだろう。しかし現在はSiriにしても新生aiboにしても、その知性は実際にはクラウド上に存在している。目の前にいるデバイスに話しかけても、その音声情報の処理はどこか遠方のサーバで行われていたりするのだ。ネコ型だろうがヒト型だろうが、特定の殻に電子的な知性が閉じ込められているかのようなデザインは、技術の本質に対して忠実でない、必然性に抗った実装形態だと言えないだろうか。手作業を模倣した家具のようにあくまで過渡期のデザインであり、生活の一部として長く選ばれ続ける、原形たる存在にはなり得ないのではないだろうか。
もし将来ドラえもんが実現するなら、それは空気に溶けた存在になるのではないか。普段は実体を持たず場に遍在していて、「ドラえもーん」と呼びかければ、すぐにあの特徴的な声で「なんだい!」と聞き返してくれる。物理的な体が必要なときは、モバイル端末だとか自動車だとかぬいぐるみだとか、いろいろな機器にその都度「乗り移れば」いい。どこにでも連れていける、何にでも変身できる相棒だ。いろいろな作業を肩代わりしてくれたり、面白い会話で楽しませてくれたり、たまには叱ってくれたりもするかもしれない。電子的な知性のあるべき形とは何か、我々が再考する余地はまだ多分に残されている。漫画に描いてあることが、必ずしも正解だとは限らない。