Wikipedia、社会の記憶

June 25, 2021

去年、仕事が原則在宅勤務に切り替わった頃は、気を引き締めないとテレビばかり見る生活になってしまうんじゃないかと心配していたのだけれど、実際は逆にテレビなんてまったく見なくなってしまった。代わりにネットで過ごす時間が増えて、YouTubeでアトランタの草テニスを見るのにハマったり、技術者らしくHacker Newsをチェックしたりと、気づけば海外、主にアメリカのコンテンツばかり見るようになっていた。外に出る機会が減ったことで、感覚的にはすっかり東京都民でも京都市民でもなく、国境のないオンラインの世界の住人になってしまったようだ。日本に住んでいる人間が日本の情報にほとんど触れないのは健全ではない気がするが、この引きこもりのような生活もようやく終わりが見えてきたことだし、一時的な状況と考えれば問題ないだろう。

ただ最近は街中も、電車の中もタクシーの中もデジタル・ディスプレイだらけで、ニュースやら広告やら常にいろいろ流れている。だからたまにでも外に出ていれば、日本の出来事について新しい情報が自然と目に入ってくる。公共の空間にデジタル広告が増えていくのは、インターネット社会の負の側面が街を侵食していくディストピアそのものという気がするけれど、結果的に世間からそれほどずれることなく日々を過ごすことができている。そんな中、数年前話題になった池袋暴走事故の裁判が行われていることを最近知った。事故を起こした飯塚幸三氏の経歴や発言を含め、人の関心を呼ぶ要素がいろいろと揃っている事件だ。

興味深いことにWikipediaの飯塚氏の記事には、研究者としての経歴や業績が列挙されているのみで事故に関する言及が一切ない。記述を追加しようとする人は大勢いるようだが、すべて削除され、現在は編集にロックがかかっている。地位の高い人だから特別な配慮が働いているのだ、といったいかにもな陰謀論も見られるが、そういうことではなさそうだ。日本では法令や過去の判例から個人のプライバシー、特に犯罪歴や裁判歴などの扱いについて慎重になる必要があるそうで、そのため日本語版Wikipediaでは(犯罪の内容がその人の公の活動と密接に関連する場合など一部例外を除いて)伏せる方針にしているらしい。(朝日の記事によれば、訴訟リスクを考慮した結果の方針という見方もあるようだ。)だから飯塚氏の記事には事故の言及がなく、事故そのものについて書かれたページは別にあるが、そちらには逆に飯塚氏の実名が出てこない。ざっと見たところ他の有名な事件の当事者についても同じ方針が取られているようで、対応には一貫性がある。これで飯塚氏の記事だけ事故について書かれていたら、むしろそちらの方が不自然だろう。

ところで近年のアメリカではBLM(Black Lives Matter)運動の一環として、著名人の彫像が広場などから撤去されたり、別のもので置き換えられたりする例が増えている。たとえば昨年末には、国会議事堂からロバート・E・リー(19世紀の南北戦争で、奴隷制存続をかけて戦った南軍の司令官だ)の銅像が撤去された。代わりに公民権運動で活躍した活動家、バーバラ・ジョーンズの銅像が置かれる予定なのだそうだ。いくら卓越した軍人とはいえ有色人種を押さえつけることに尽力した人と、人種差別の撤廃に向けて闘い続けた人なら、彫像を置いて称えるべきは後者だというのは当たり前のことのように思える。しかし撤去されているのは、そういったわかりやすい歴史の悪役の彫像だけではない。クリストファー・コロンブスやジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、エイブラハム・リンカーンなど、僕が子供の頃に受けた歴史の授業ではヒーローのように扱われていた人たちの彫像も、ここ数年(大半は2020年)の間に自治体の手で、あるいは活動家の手で次々と撤去されている。

アメリカで育ったとはいえ今は現地にいない僕には、こうした話の細かなニュアンスを正しく理解することは難しい。ボストンにあるコロンブスの石像の首がスパッと刎ねられている写真などを見ると、どこか狂信的な印象さえ浮かんでしまう。立派な功績を残した偉人でも、現在の倫理観に照らし合わせると問題のある思想を持っていたり、行動を取っていたりすることはあるだろう。皆ただの人間なのだから、細かく見ていけば汚点があっても仕方ない。徹底して聖人君子であることを求めるなら、誰の彫像も立てられなくなってしまう。そんな世界を望んでいるのだろうか?

しかしいろいろ調べていくと、このような見方は遠く離れた国に住む人間の表層的な解釈に過ぎないことがわかる。彫像を取り壊す活動家、現代のイコノクラストたちが求めているのは、社会の記憶の再考だ。我々は社会として誰を、どのように記憶するのか。誰を称賛し、誰を非難し、誰を忘れ去るのか。アメリカにおいてそうした事柄を決定する権限は、これまで一部の人種や社会的階層の人のみに与えられてきた。活動家たちは、それを「みんな」で再考する必要性を唱えている。ワシントンやリンカーンの功績の偉大さを否定しているわけではなく、単純な神格化を拒み、彼らの思想や行動に見られる矛盾、彼らの冷酷さや卑怯さなども含めて社会は記憶すべきだと主張している。また白人中心の歴史観の中で軽んじられてきた、しかし現代のアメリカを形作る上で多大な貢献をした人々にも公正に光を当てるべきだと主張している。彫像の破壊は、歴史のナラティブを民主化する運動、社会の記憶を包摂的なプロセスで再構築する運動と見るのが正しそうだ。

話を戻すと、飯塚氏の記事が事故について言及していないことは、日本語版Wikipediaの一貫した方針に従ったもので、特別な理由のあることではないようだ。階層化が進む日本社会において、恵まれた「上級国民」がアカウンタビリティの欠落した横暴な振る舞いをしている事例と(そういうことが多々あるのは否定しないとして)見ることはできない。勘違いして憤っている人や根拠のない陰謀論を唱える人を見て、あきれ返る気持ちが芽生えても自然なことだろう。

しかし同時に、憤っている人たちにまったくシンパシーを感じないわけでもない。我々の社会におけるWikipediaの役割は、ただの百科事典としての範囲をすでに大きく超えている。Wikipediaは世界有数のアクセス数を誇るウェブサイトで、世間からの信頼も厚く、どんなキーワードで検索しても結果の上位にランクインする。そこに自身の記事が載ることは、(Wikipediaの編集者の意図はどうあれ)大勢の人で賑わう広場に自らの彫像が立てられることに等しい。分量もあり数多くのページからリンクされている飯塚氏の記事は、中でも特にビジビリティの高い、立派な彫像だ。そしてこのデジタルな彫像は、社会の記憶を構成する。あれだけの事故を起こした人物にも関わらず、その記事が一方的に褒め称えるような内容になっていることが、一部の人の神経を逆撫でしたとしても不思議ではないだろう。

飯塚氏のケースに限定して考えると、過失でもあることだし、事故に関する記述がないことが特に大きな問題を孕んでいるとは思わない。また凄惨な事故とはいえ、それに関する記述が欠けていることは、(BLMが是正を目指す)数百年にわたる人種差別の歴史が隠蔽されることと等価ではない。しかしプライバシー配慮の名の下に、人物について否定的な内容の記載をすることに英語版と比較して明らかに消極的な日本語版のWikipediaは、社会の、「みんなの」記憶を構成する装置としては不備を抱えているように思える。WikipediaにせよFacebookにせよ、ITのプラットフォームは今や社会に対し絶大な影響力を持つようになった。その内部ルールは公共の関心事であり、肥大した影響力を考慮して策定されなくてはならない。


竹内雄一郎
計算機科学者。トロント生まれ。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所研究員、および一般社団法人ウィキトピア・インスティテュート代表理事。東京大学工学部卒業、同大学院新領域創成科学研究科博士課程修了、ハーバード大学デザイン大学院修士課程修了。ニューヨーク大学クーラント数理科学研究所客員研究員、科学技術振興機構さきがけ研究者等を経て現職。情報工学と建築・都市デザインの境界領域の研究に従事。

YUICHIRO TAKEUCHI is a Toronto-born, Tokyo-based computer scientist whose work explores the intersection of digital technology and architecture / urban design. Currently he works as a researcher at Sony Computer Science Laboratories Kyoto, and also directs the nonprofit Wikitopia Institute. He holds a PhD in Informatics from The University of Tokyo, and an MDes from Harvard Graduate School of Design.