こんなご時世だから外に出る機会も少ないので家でネットばかり見ていたら、ニック・ケイヴというミュージシャンのブログですごくいい詩が紹介されているのを発見した。イギリスのスティーヴィー・スミスという詩人の(聞いたことがなかったが有名な人らしい)、I Do Not Speakという題名の詩だ。暇つぶしに、すごく適当だけれど訳してみよう。
—
私は赦しを請わない 理解されることも、心の安寧も求めない この陰鬱とした日々から解放してくれとも言わない 苦しみを止めてくれとも言わない いっそ死を与えてくれ、などと神に祈ることもない 私の叫びに耳を傾けてくれとも言わない 立ち止まってくれ、振り向いてくれとも言わない 私は何も請わない、何も言わない 異議を唱えることも、何かを期待することもない 弱かった、かつての私のようには振る舞わない 今、私は強く、悲しみをまとっている それは魔法の鎧のように私を守る 今日という日を生き、明日のことなど恐れない
—
あれ?くたびれたおっさんの独り言みたいになってしまった。元の英文だと、苦難に満ちた人生に立ち向かう決意のようなものが感じられる詩だと思ったのだけど、この訳だと弱々しい愚痴のように聞こえてしまう。やっぱり詩というのは辞書的な意味以外の要素が重要で、その辺りまで気を使いながら訳さないと台無しになってしまうということだろう。多分、自分でも詩を書ける人じゃないとうまく訳せない。
詩といえば昔読んだ何かの教科書に、ウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」にある以下の一節が載っていて、当時とても気に入っていた:
The eagle never lost so much time, as when he submitted to learn of the crow.
これも適当だが訳すと、「鷲にとって、烏に学ぼうとすることほど無駄なことはない」といった感じだ。自分は鷲で、周りの人間は大抵烏ということか!なんて傲慢な態度なのだ。もちろん、僕自身はそんな風には思っていない。僕も周りも烏でしかなくて、でも世の中は烏の群れで回っているのだ。
ただ、改めて見てもこのブレイクの一節はやっぱり好きだ。先のスティーヴィー・スミスの詩もすごくいいと思うんだけど、僕にはこっちの方がしっくりくる気がする。実は傲慢だとかそんなつもりはなくて、これまでに大した苦難を経験してきたわけでもない僕には、未来に対する楽観的な期待みたいなものが随分残っているから、多分こういう勢いのある物言いが耳触りよく感じられてしまうのだ。この先、もっと人生に叩きのめされたら、その時はスティーヴィー・スミスの詩集を買おう。