ソーシャルメディアの力学

February 7, 2017

2000年代後半から現在にかけての、ここ10年ほどの期間というのは、ソーシャルメディアに対する理解が大きく広がった10年だったと思う。2008年、アメリカの大統領選でバラク・オバマが当選したとき、Facebookなどのソーシャルメディアをうまく使って草の根的な選挙戦を繰り広げたことが話題となった。昨年の大統領選ではドナルド・トランプが当選したが、やはりTwitterなどのソーシャルメディアをうまく使ったことが勝因の一つとして挙げられている。こう書くと何も変わっていないようだが、この二つの大統領選の間に、ソーシャルメディアに対する我々の理解の度合いは大きく前進した。

トランプの大統領選の相手はヒラリー・クリントンで、全米各地の新聞は(伝統的に共和党寄りのものも含めて)ほとんどが明確にヒラリー支持を表明していた。トランプはTwitterの力で、大手メディアをねじ伏せたのだ。ソーシャルメディアの、既存メディアに対する優位性がこれほどはっきりと示された事例は今までなかっただろう。

しかし昨年の大統領選が明らかにしたのは、ソーシャルメディアの力の大きさだけではない。「フェイク(嘘)・ニュース」という言葉が世間を騒がせている。選挙戦中、ソーシャルメディア上で、ヒラリーを貶める根拠のない嘘のニュースが数多く広まった。メール問題を調査していたFBIの捜査官が不審な一家心中を遂げた、などといった根も葉もない話だ。しかし真っ赤な嘘にも関わらず、こうしたフェイク・ニュースはまるで山火事のように急速に拡散していった。

膨大な量の情報がネット上に溢れている現在は、ジャーナリストたちにとっては厳しい時代だ。長期間にわたる綿密な取材を経て、何度も推敲し記事を書き上げたとしても、まずクリックしてもらえなければ中身を読んでもらうことすらできない。クリックベイト(クリックを誘う釣り餌)などと揶揄されるが、できるだけ人が続きを読みたくなるように記事の題名に様々な工夫を凝らす。「~な5つの理由」などといった定型的なタイトルの記事が並ぶのは、その方がクリック数が増えることがわかっているからだ。しかし「内容が真実でなくてはならない」という足枷から解き放たれたフェイク・ニュースは、苦心してタイトルを練り上げる必要すらなく拡散する。完全なフィクションであれば、東芝の不正会計や韓国大統領の汚職などに匹敵するセンセーショナルな事件が、いくらでも作り出せてしまうのだ。

ソーシャルメディアには独特の力学が働いていて、その中で浮かび上がってくる情報(たとえば記事や映像など)は、浮かび上がるにふさわしい何らかの性質を備えている。それを仮に「拡散力」と呼ぶことにしよう。PPAPや江南スタイルは、高い拡散力を備えたミュージック・ビデオだ。拡散力は、ソーシャルメディアが浸透した現在の世界において最も重要な価値の一つだといえる。キム・カーダシアンは何の才能もないくせに成功しているなどと言われるが、やることなすことすべてに圧倒的な拡散力があることを考えれば、もっと成功していてもいいくらいだ。

しかし注意すべきなのは、拡散力を備えている情報が同時に他の価値、たとえば芸術的価値、学術的価値、公共的価値、真実性などといった、我々が伝統的に大切にしてきた価値も満たしているとは限らないということだ。これは自明のように聞こえるかもしれない。YouTubeの再生数を根拠に、PPAPこそが昨年制作された中で最も芸術的価値の高い音楽作品なのだ、と主張すれば多くの人はそれを冗談だと切り捨てるだろう。フェイク・ニュースの執筆者にピュリッツァー賞を与えようなどといった話も耳にしない。しかし実際のところ、ここ10年の間に、拡散力と伝統的価値の混同は社会のいろいろなところで見られた。

エフゲニー・モロゾフの著書に顛末が記述されているが、オバマ政権は一期目の途中に、一つの実験的なウェブサイトを立ち上げた。そのサイトでは誰もが政府に対する政策提言を投稿することができ、またFacebookで「いいね!」を押すように、他者の提言に対して賛同の意を示すこともできる。そのようなシステムをしばらく動かしておけば、いくつかの優れた提言が自然と浮かび上がってくるはずで、それらこそが現在のアメリカ国民の声を反映した最も重要な提言だろうという理屈だった。

しかしモロゾフによれば、実際に浮かび上がってきた提言は「男性がトップレスで歩くことが許される場所は、女性もトップレスで歩く権利があることを法的に保障すべきだ」「(犬の虐待容疑で逮捕された)アメフト選手のマイケル・ヴィックについて大統領は公式な見解を示すべきだ」など、一概に無意味と切り捨てることはできないが、金融危機後のアメリカにおいて最も重要かといえば疑問符が付くものが多くを占めたそうだ。PCやスマートフォンを通して、インターネットから常に情報を摂取し続けている我々は、どんな情報に拡散力があるか感覚的にわかるようになってきている。犬や猫など、動物関係の情報には拡散力がある。有名なスポーツ選手に関する情報には拡散力がある。トップレスで歩く権利についての提言なんて、いかにも「まとめサイト」に載っていそうだ。要するに、公共的価値の最も高い提言ではなく、拡散力の最も高い提言が浮かび上がってきたのだ。

似たような混同の事例はヨーロッパでも日本でも、世界中のあちこちで、また産業界や学術界などあらゆるコミュニティで見られる。

都市のデザインについても、ソーシャルメディアの仕組みを取り入れようとする試みは多く存在している。たとえばネット上で広く事業のための資金を募るクラウドファンディングを、公共空間の設計や建設に応用しようという動きがある(キックスターター・アーバニズムなどと呼ばれている)。ニューヨークのローラインはその代表的な例で、マンハッタン地下にある使われなくなった駅の跡地を、緑あふれる公園につくり変えようというアイデアだ。提唱者のジェームズ・ラムゼーとダン・バラシュは、建設計画の技術的妥当性や安全性の評価に必要な資金として、15万ドル以上をクラウドファンディングを通して集めることに成功した。このようなやり方をとることで、プロジェクトの初期費用が賄えるだけでなく市民の支持の厚さも明確になるので、計画が自治体に認められる可能性が高くなるというわけだ。

個人的にローラインは素晴らしい計画だと思うし、もし完成すれば必ず訪れるつもりだ。しかしアレクサンドラ・ラングが指摘しているように、キックスターター・アーバニズムの力を過信することは禁物だ。ローラインが広く支持を集めたのは、それがロウアー・マンハッタンという裕福な地域に、派手でお洒落な新しい遊び場をつくるアイデアだからだろう。低所得者の住む地域の公園に、清潔な水飲み場を設置するといったアイデアではこうはいかない。いくらレンダリングソフトを駆使して、格好いい完成予想図を作ったとしても、ローラインのような飛び抜けた拡散力を持つとは考えにくい。公共的価値の高い計画の中には、残念ながら本質的にソーシャルメディアの力学に馴染まないものもあるのだ。

ソーシャルメディアの民主性に任せれば何もかもうまくいくという考えは、自由競争に任せればすべてうまくいくという新自由主義者の考えと同じように、理論としては美しいが現実には則さないものだ。それがここ10年ほどの間に、様々な失敗を経て徐々にわかってきた。DIY的な街づくりを目指すタクティカル・アーバニズムも、ボトムアップ的なスマートシティ像の確立を目指す僕の仕事も、このことを忘れてしまえば、他の価値を犠牲にし拡散力のみを追い求めるフェイク・ニュースの執筆と変わらないものになってしまう危険性がある。苦しみながら取材を重ね記事を書いて、最後にちょっと大袈裟なタイトルをつけるジャーナリストくらいの態度がちょうどいいんじゃないだろうか。


竹内雄一郎
計算機科学者。トロント生まれ。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所研究員、および一般社団法人ウィキトピア・インスティテュート代表理事。東京大学工学部卒業、同大学院新領域創成科学研究科博士課程修了、ハーバード大学デザイン大学院修士課程修了。ニューヨーク大学クーラント数理科学研究所客員研究員、科学技術振興機構さきがけ研究者等を経て現職。情報工学と建築・都市デザインの境界領域の研究に従事。

YUICHIRO TAKEUCHI is a Toronto-born, Tokyo-based computer scientist whose work explores the intersection of digital technology and architecture / urban design. Currently he works as a researcher at Sony Computer Science Laboratories Kyoto, and also directs the nonprofit Wikitopia Institute. He holds a PhD in Informatics from The University of Tokyo, and an MDes from Harvard Graduate School of Design.