初期のコンピュータ(汎用電子計算機)は部屋を丸ごと占拠してしまうような巨大なもので、それは一部の政府機関や大企業、学術機関のみに置かれていた。コンピュータが人間の知的能力を拡張する革新的な道具であることは疑いようがなかったが、それが広く人々の手に渡らず、限られた人や組織に独占されていることが、1970年代のカリフォルニアの技術者たちにとっては不満だった。その主な用途の一つが軍事であったことが、不満にさらに輪をかけた。当時カリフォルニアは反戦運動のメッカだったのだ。
このような背景のもと、PC(パーソナル・コンピュータ)は生まれた。その原型は70年代、ゼロックス・パロアルト研究所(PARC)で誕生し、80年代前半にはアップルのマッキントッシュなど完成度の高い製品が市場に出回るようになった。PCの登場によって、所属機関や専門的技能によらず「だれでも」コンピュータを仕事や趣味、その他さまざまな知的活動に利用できるようになった(もちろん、当時の高額なコンピュータを買える財力さえあればという条件付きだが)。90年代に入るとインターネットの普及が始まり、コンピュータを通して世界各地から情報を受け取ったり、世界各地の人々と交流することができるようになった。
PCが世間に浸透し始めていた頃、研究者たちは早くも次世代(ポストPC)のコンピュータについて模索を開始していた。PCは確かに「だれでも」コンピュータを使うことを可能にしたかもしれない。しかしPCを使うためには、まずそれが置いてある場所まで移動し、座り、電源を入れ、手をキーボードとマウスの上に置かなくてはならない。特定の状況に身を置いて、はじめて利用できるというわけだ。研究者たちは、コンピュータという革新的な発明がその真価を発揮するには場所や場面に関わらず、つまり「だれでも」に加えて「いつでも」「どこでも」それが利用できるようになる必要があると考えた。そしてそのような未来は、持ち歩くもの、身に付けるもの、環境に埋め込まれたものなど多種多様な情報機器の集合体によって実現されると結論づけた。「ユビキタス・コンピューティング」と名付けられたこのビジョンは多くの賛同者を生み、そのままスマートフォンやスマートウォッチ、そしてIoT(Internet of Things、モノのインターネット)などが混在する今の情報環境のプロトタイプになった。
フロンティアはつねに存在するものだ。ユビキタス・コンピューティングが現実のものとなった今、研究者たちはさらなる次世代(ポスト・ユビキタス)について思いを巡らせている。例えば私の同僚の暦本純一など一部の研究者は、モバイル(持ち運ぶコンピュータ)やウェアラブル(身に付けるコンピュータ)を超えて、「コンピュータと不可分に融合した新たな人体」をつくる試みに着手している。いわば人体の再設計である。
同じような考え方で、私を含む一部の研究者は環境、すなわち建物や都市の再設計を志向している。情報技術との不可分な同化を前提に環境の再設計を進めていくことが、次世代の中心的な課題だと考えているのだ。ユビキタス・コンピューティングにより、さまざまな大きさ・形・機能を持ったコンピュータが、環境の隅々にまで散らばった。しかし環境自体は、これといって変化していない。例えばスマートハウスやスマートオフィスなど、世間で「スマートな」環境について語るとき、そこで実際に語られるのは代わり映えのない環境の上に「スマートな」情報機器のレイヤーを上乗せするといったアイデアだ。スマートシティに関する議論も大半はそうだろう。しかしそれは旧世代のやり方だ。次世代で求められるのは、環境の上に設置される情報機器群を設計することではない。情報技術を内在化した新たな環境を創造することが必要だと考えている。
ハビタブル・コンピューティング(またの名を、ハビタブル・ビット)は、上記の考えの一つの実装形態だ。ハビタブル(Habitable)とは「居住できる」という意味の英単語であり、ハビタブル・コンピューティングの目的は環境にデジタル・メディアのような可変性を与えること、言うなれば環境を「居住できるデジタル・メディア」として再構築することだ。これは何も、建物や都市を丸ごとプログラマブル・マター(自由にその形状を変えられる、仮説段階の未来の物質)でつくってしまおうといった途方もない試みを指しているのではない。複数の技術分野にまたがる細かなイノベーションを積み重ねることで、全体として環境の可変性は上げられる。いずれスマートフォンの待受画像を変えるように簡単に、周囲の環境を組み替えられる未来が到来するかもしれない。
抽象的な話が続いてしまった。ハビタブル・コンピューティングは、具体的には以下の3つの技術的アプローチの集合体だ。「ロボティック・アーキテクチャー」「オーグメンテッド・アーキテクチャー」そして「プリンタブル・アーキテクチャー」の3つである。
ロボティック・アーキテクチャーとは、機械的な変形機構やデジタル制御可能な発光装置などを建築物の内部要素として取り入れることで、環境の物理的形状や見た目の動的な変化を可能にするというアプローチだ。環境に可変性を与える、最も直接的なやり方である。
すでに多くの建物に、自動ドアやエレベーターなどの可変装置が組み込まれている。こうした機械的な仕掛けの利用は徐々に増加し、多様化している。例えばベルリンにあるオラファー・エリアソンのスタジオでは、ボタンを一押しすると高さが変わる机を採用している。長時間同じ姿勢をとり続けることがもたらす健康被害が最近明らかになってきたので、時々立って作業できるようにしているのだ。似たようなアイデアは今後ほかにも出てくるだろう。しかしこれらの技術には特に目新しい点はなく、近年目覚ましい発展を遂げているわけでもない。発展も普及も緩やかだろう。アーキグラムによる有名な《ウォーキング・シティ》(1964)のような、大規模な変形機構を搭載した建物が一般化する見込みは当分なさそうだ。
逆に今後急速な拡大が見込まれるのは、ディスプレイ技術の建築物への応用である。今でも繁華街の商業建築の外壁を彩ったり、駅構内で広告を表示したりするためにディスプレイが使われている。今後は使用されるディスプレイ技術の種類、用途がともに広がっていくだろう。例えば私がソニーの研究所で現在率いているプロジェクトのひとつでは、裸眼3Dディスプレイ技術を照明装置に応用することを試みている。裸眼3D技術は、テレビ用途としては残念ながら普及しなかった。しかしその特殊な光学技術は、「万能の」照明装置の実現を可能にする。蛍光灯、シャンデリア、スポットライト、果ては自然光に至るまで、あらゆる光源の光を再現できるパネル型の照明装置を作りだすことができるのだ。将来、建物の天井には従来の照明器具でなく一枚の「万能照明パネル」を貼り付けるのが一般的になるかもしれない。光源の種類も数も位置も、気分や必要に応じて自由に、瞬時に変更できる。私たちの生活における、人工光の使われ方が根底から変わっていくだろう。
また研究所内で進められている別のプロジェクトでは、液晶ディスプレイ技術を応用して、選択的に光を透過できる窓を開発している。通常の液晶ディスプレイでは、各ピクセルごとに色の切り替えが行なえる。対してこの窓では、各ピクセルごとに光の透過・不透過を切り替えることができるのだ。この窓は瞬時に壁にも、ブラインドにもなる。私はさらに、この窓に限定的な形状変化の仕組みなどを追加することで、光だけでなく空気や音、一部の物質も選択的に透過できる、多能性の膜のようなものを実現できると考えている。いずれ、私たちが生活する建物の壁や窓の一部は、こうした膜に置き換わっていくかもしれない。屋内と屋外の区別は今のようにはっきりしたものから、段階的で重層的なものに変わっていくだろう。
オーグメンテッド・アーキテクチャーとは環境の物理的な変形を試みるのではなく、拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)を利用することで環境に対する人間の知覚に干渉し、建物や都市に仮想的な可変性を与えるというアプローチだ。その効果が仮想的なものであるがゆえに、物理法則を含めたあらゆる実世界の制約を無視した、大規模で急激な環境の改変が可能になる。
拡張現実とは、スマートフォンなどのモバイル・デバイス、あるいはヘッドマウント・ディスプレイなどのウェアラブル・デバイスを用いて、実世界に仮想的な情報を重ね合わせる技術のことを言う。この文章を執筆しているちょうどこの瞬間、スマートフォン用ゲーム「ポケモンGO」が世界的なブームを巻き起こしている。これは拡張現実を非常にシンプルに実装したものだ。スマートフォンの画面に、カメラを通して撮影した外界のライブ映像が映し出され、そこに架空のキャラクター(ポケモン)が重ね合わせて表示される。スマートフォンの画面を通して世界を覗き見ることで、まるでその場にポケモンが存在しているかのように見えるのだ。
先進的な画像処理技術を取り入れることで、ポケモンGOのように実環境の「上に」仮想的な物体を配置するだけでなく、環境自体が変形したように見せることも可能だ。このことを利用して、私は以前タブレットを通して見た街の建物を、自由に伸縮、変形、さらには撤去できるシステムを試作した。例えばレストランを探す際に、周辺の建物の高さを「食べログ」の点数に応じて上下させる、といった芸当が可能だ。現状、スケーラビリティや動作の安定性などいくつかの面で課題が残っているが、このような技術が実用レベルに達するのは時間の問題だろう。スマートフォンやタブレットの代わりにヘッドマウント・ディスプレイ(屋外で常用できるものが完成するまでにはまだ時間がかかりそうだが)を用いて実装すれば、常時拡張された世界に身を置けるようになるかもしれない。映画『インセプション』(クリストファー・ノーラン監督・脚本・制作、2010)のワンシーンのように、自分が思い描いた通りに、いつでも都市を改変できる能力が手に入るのだ。拡張された都市は、ひとつのデジタル・プラットフォームとなる。近所の風景を、Facebookのプロフィールのように自分の好みに合わせて再デザインしたり、街全体をWikipediaのように集団で編集していくことが可能になるだろう。
もちろん、視覚の拡張だけが拡張現実ではない。ヘッドセットを用いた聴覚の拡張、振動フィードバック・デバイスを使用した触覚の拡張など、幅広い感覚に干渉する技術が開発されている。これらの中にも、オーグメンテッド・アーキテクチャーに生かせるものがあるだろう。将来的には多様なウェアラブル・デバイス群が私たちの五感を絶えず拡張し、それが仮想であるとは信じがたいほどの迫真性をもって、可変的な環境の体験を提供するようになるかもしれない。
プリンタブル・アーキテクチャーは、3Dプリンティングをはじめとするデジタル・ファブリケーション技術を利用することで、環境の手軽な自動生成を可能にするというアプローチだ。これまでの2つのアプローチとは異なり、瞬間的な環境の変化を実現することはそもそも目的としない。新たにプリントした構造物を既存の環境に追加したり、既存の建物をプリントしたもので置き換えたりすることによって環境の更新を行なう。このようにリアルタイム性はないものの、デジタル・メディアに特徴的な、自由なカスタマイゼーションの可能性を環境に与えることができる。
現時点で、居住可能な大きさの建築物を丸ごと3Dプリントすることは不可能ではないが、現実的でもない。特に東京のような密度の高い都市において、近い将来プリントされた建物が林立するような状況になる可能性は低いだろう。しかしちょっとした小屋や家具、内装などといったスケールでは、3Dプリンティングはすでに十分に実用的だ。高い形状の自由度を生かすことで、狭いスペースにぴったりはまるテーブルや、従来は見られなかったような斬新な形の大型彫刻などを制作することができる。構造的強度の向上やコストの低下などが進むにつれて、使用は広がっていくだろう。
自宅の内装や外装を好きなように変えられることは魅力的かもしれないが、プリンタブル・アーキテクチャーの用途はそれだけではない。サンフランシスコにPavement to Parks(ペイブメント・トゥ・パークス)という制度がある。これは住民や地元企業が市に対して計画を申請し、それが認可されると、道路脇の駐車スペースの一部をパークレットと呼ばれる小さな公園につくり変えることができるという制度だ。パークレットの制作や維持は、申請者が地元コミュニティと協力しながらDIY(Do It Yourself)的に行なう。Pavement to Parksは2009年に開始され、今や市内のパークレットの数は60に迫っている。このように、自治体の注意が行き届かないような極めて小さなスケールの都市デザインを、実際にそこで生活する住人の自発的な合意形成や問題解決に任せようという動きが世界各地で出現しつつあるのだ。プリンタブル・アーキテクチャーは、そうしたDIY的な都市デザインを加速できるはずだ。
私がソニーで進めている研究プロジェクトのひとつでは、植物の生い茂る「庭」を3Dプリントする手法の開発を目指している。前述したように、比較的小さなスケールであれば建築物の3Dプリンティングはすでに実用レベルに達している。しかし都市の環境は、狭義の建築物だけで構成されているわけではない。芝生や街路樹、壁面緑化や屋上庭園などの「半自然」的な要素も、その重要な一部である。いわゆる建築物と、こうした「半自然」要素の両方を3Dプリントすることができるようになれば、総合的な環境の自動生成に手が届く。未来のパークレットは、丸ごと3Dプリントされるようになるかもしれない。
ハビタブル・コンピューティングの研究動向が指し示す未来像において、私たちの住居は時々刻々とその姿を変え、快適さを常に保証する。仮想と現実の差をあいまいにするウェアラブル・デバイスが、街から退屈さを取り除く。疲れたなら、そこら中にあるプリントされた公園で腰を下ろせばいい。未来の都市は万人にとって安全で暮らしやすく、生き生きとして多様性に満ち、そして民主的につくられ維持される。これは夢物語だろうか?もちろん、その通りだ。
技術者の思い描くテクノ・ユートピアはいつの時代も身勝手なものになりがちだ。そしてそれはいつの時代も、そのままの形で実現することはない。私たちの目の前にあるPCも、ユビキタス・コンピューティングを構成する様々な情報機器のネットワークも、当初の素朴なイメージとは異なるやり方で実装され、予期されなかった目的に使用され、そして誰にも想像がつかなかった影響を社会に及ぼしている。ハビタブル・コンピューティングも同じ道をたどるだろう。
新しい技術は、都市をどのように変えていくだろうか。かつてアーバン・ダイナミクスの専門家たちが追い求めたような、機械のようにシームレスに動く次世代の計画都市が誕生するだろうか。あるいはオンライン・メディアの双方向性を取り入れた、混沌とした、しかし民主的な街が生まれるだろうか。それを決めるのは研究者や技術者の仕事ではない。私たち全員の仕事だ。幅広い視点や知識、経験に基づいた議論を始めよう。研究者の頭の中に生まれた勝手なユートピアなど、ただの出発点にすぎないのだ。
竹内雄一郎
1980年トロント生まれ。計算機科学者。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所研究員、および科学技術振興機構さきがけ研究者。東京大学工学部卒業、同大学院新領域創成科学研究科博士課程修了、ハーバード大学デザイン大学院修士課程修了。情報工学と建築・都市デザインの境界領域の研究に従事。