4. すべてが最適化されたとき

アレックス・ウォッシュバーン

真にスマートな都市とは、優れた意思決定がなされる都市のことである。意思決定には二つのタイプがある。ストラテジー(戦略)とタクティクス(戦術)である。戦略に関する意思決定は「何をすべきか」を決め、戦術に関する意思決定は「どうやるべきか」を決める。いわゆるスマート・テクノロジーが私たち市民に戦略と戦術を混同させるとすれば、それはスマートなものとは言えない。都市の運営にまつわる意思決定の中には、テクノロジーに任せて問題ないものが多数あることは事実である。しかしその一方で、都市が今後進むべき方向を決定づける試み、市民全体として何が正しい選択なのかを決断する試みなど、都市の舵取りに関する根源的な意思決定も存在する。これらの意思決定をテクノロジーに委ねることは、すなわち私たちが都市の運命に関する責任を放棄することを意味する。「統治することは、選択することである」とは、ジョン・F・ケネディの言葉である。

未来は希望に満ちていたはずではないか?

かつてニューヨーク市の都市デザイン局長をしていた頃、多くのコンサルタントや大手テクノロジー企業の社員などが私を訪ねてきて、スマートシティの夢について語った。彼らの言葉によれば、スマートシティでは交通の流れはつねに円滑で滞ることがなく、エレベーターは人の行動を先読みして動くため、いつでも待ち時間なく乗れるとのことであった。彼らが語ったスマートシティとは、私たち自身よりも私たちについてよく知っている(ように見える)近年のデジタル機器やその上で動くアプリのように、つねに私たちが必要とするものを一足先に察知して適応してくれるものであった。IoT(Internet of Things、モノのインターネット)が張り巡らされつつある今、私たちはようやくスマートシティを現実のものにする準備ができたと言えるかもしれない。私たちの嗜好や行動とシンクロしているかのように振る舞う都市の姿を想像してごらん!

テクノロジーは準備万端だが、文法が追いついていない

それが本当だとしたらすごいことだ。しかし私は、スマートシティの夢はある種の嘘の上に成り立っていると感じている。いや、嘘とまでは言うまい。おそらく文法的な誤りを犯している、具体的には代名詞を取り違えているのだ。スマートシティの信奉者たちが、魔法のようなテクノロジーに彩られた来るべき「私たちの」都市について語るとき、そこで実際に語られているのは「私の」都市である。私たちは、集合的なものと個人的なものを混同しがちだ。マーケティングを通して、私たちはスマートフォンなどのパーソナル(個人の)・テクノロジーが人類全体に奉仕するものだと信じるようになった。セルフィー(自撮り画像)が、人類全体の肖像であるかのような錯覚を起こしてしまった。

Facebookの世界では問題ないだろう。しかし、人々が暮らす都市の創造に携わるものとして私は、自分が欲しているものを同様に他人も欲しているといった個人と集団との混同には警鐘を鳴らしたい。「私」と「私たち」は同じではないのだ。

都市は集団的に創造される。そして都市はあらゆる人の要望を同時に満たすことはできない。交差点の信号を、あらゆる方向で同時に青にすることはできないし、エレベーターは全部のフロアで同時に待機することはできない。どちらの方向を青にするのか、どのフロアで待機するのか、優先順位を決定しなければならない。そうした意思決定はたとえ小さなものでも、優先される者(勝者)とそうでない者(敗者)を作り出す。

勝者と敗者の線引きは政治的な決定である

歩行者が道を横断している間、車で信号待ちをすることはたいした問題ではないだろう。全体としての道路交通の効率性と安全性がそれで維持されることを考えれば、信号機などという頭の悪いテクノロジーに自分の行動を管理される(交通に関する意思決定を委ねる)ことを私はまったく厭わない。今後、感応式交差点のようなスマートな仕組みがより進化して、ほかに人や車がいないとき無駄に待たなくて済むようになれば、私は喜んでその新しいテクノロジーを受け入れる。これらは全て戦術のレベルの話である。

また、私は車を運転するときはいつも、移動時間の短縮のためWaze(目的地までの最短経路を算出し提示するスマートフォン用ナビゲーションアプリ)を使うようになった。都市デザイナーである私は街の道路網を隅々まで知り尽くしていると自負しているが、今やその時々の最適な道順を探し出すことにおいては、不特定多数のユーザから集められたリアルタイム・データと経路探索アルゴリズムの組み合わせに敵わないことを認めている。自らの意思決定をテクノロジーに委ねれば委ねるほど、私は目的地に早く到達できる。これはウィンウィンの関係だ。私はテクノロジーに侵食された社会で快適に過ごしている。何の不平不満もない。私が委ね続け、アルゴリズムが最適化し続けてくれるなら、世の中はどこまでも暮らしやすくなっていくように思える。まさに信号が常に青信号という状況である。

漸近線に気をつけろ

最適化には限界がある。これにいち早く気づいたのは金融業界だ。スティーブンス工科大学にある私のオフィスの隣は学内の金融工学者たちの居室であり、そこでは投資のパターンが最新のテクノロジーで分析されている。私は彼らと高速トレーディング・アルゴリズムの詳細や、インサイダー取引を判別することの技術的な難しさなどについて語り合ったりする。驚嘆すべき分析力と直感力を備えた彼らは、トレーディングの未来をその目で見ている。そしてその未来では、投資判断に人間による意思決定が入り込む余地はほとんど残されていない。

アルゴリズムがアルゴリズムと戦っている。人間であるトレーダーが、プログラムの忠告に抗うことはどんどん稀になってきている。次世代のトレーダーは、いわゆるクォンツ(数学的・統計的手法の専門家)そのものだ。彼らは売買する株を選ぶのではない。コード(ソフトウェア・プログラムを記述した文字の羅列)を選ぶのだ。コードはアルゴリズムを実装し、アルゴリズムは取引を動かす。しかしアルゴリズムはいつの間にか、どの取引が最適かといった戦術的なレベルの意思決定を超えて、どうすれば競争相手を負かせるかといった、戦略的な意思決定にまで踏み込んでしまっている。

アルゴリズムはセンサを通して、絶えず市場に関するデータを収集している。同時に、ほかのアルゴリズムのセンサを騙すために、嘘のデータを作り出したりもする。取引を成立させて、すぐにキャンセルするといったことを一瞬でやってのけ、釣られて反応したほかのアルゴリズムから収奪する。新しい、スマートな金融の世界において、テクノロジーは規制の動きが追いつけないほどの速度で目まぐるしく進化していく。唯一不変なのは、あらゆる成功した取引の背後には敗者がいるということだ。これはゼロサムゲーム(勝つか負けるか)である。

トレーディングに勝者と敗者は付き物だが、注目すべきはそれがアルゴリズムの優劣によって決定されるということである。私はここに、スマートシティの支持者たちが描き出すものよりも暗い、都市の未来像を垣間見る。確かにスマート・テクノロジーの導入は都市が抱える多くの非効率を是正し、それはすべての人に恩恵をもたらすだろう。しかしこうした、システム全体の非効率はいずれそのたいていが解消され、それ以降は個々人が利益を得るためには、別の誰かが損失を被ることが必要になってくる。金融業界向けのスマート・テクノロジー(アルゴリズムやセンサなど)を開発・販売・採用した者たちは口々に、スマートシティ支持者たちと同じように、全体にとっての利益について語った。市場へのオープンな参加による流動性の増加、データ収集による透明性の確保などである。その結果、どうなっただろう?テクノロジーは漸近線(幾何学における概念で、ある曲線が次第に近づいてはいくが、永遠に接することはない直線のこと)に近づいている。限界が迫っている。集合的な利益の増大が緩やかになるにつれて、ゼロサムゲーム的な側面が次第にその顔を出してくる。アルゴリズム対アルゴリズム、データ対データ。スマート化された金融市場における戦いは、私たちがテクノロジーに意思決定を委ね続けた果ての都市の姿を暗示している。

メガシティの道路網において、交通量が飽和点に達した状態を想像してみてほしい。このような状況では、Wazeによる最適化も頭打ちとなる。どの道順を選ぼうと、目的地に早く到達することはできない。結果、交通もゼロサムゲームになってしまう。ゼロサム都市において人より速く進むためには、個人のための最適化アプリ(仮に「WazeMe」と呼ぼう)を装備し、ほかのドライバーたちと競争し、出し抜かなくてはならない。私が予定より早く目的地に着いたなら、それはほかの誰かが予定より遅れたことを意味する。街中を車で横断することが、アルゴリズム間の競争になった社会とはどのようなものだろうか。アルゴリズムは時々刻々のデータに基づいた最適化を行なうだけでなく、競争相手を騙すため嘘のデータを作り出すなど、さまざまな手を使って優位性を得ようとするだろう。システム全体の最適化が達成されたとき、誰かが勝者になれば必ず誰かが敗者になる未来が姿を現わす。その瞬間、テクノロジーは戦術決定から戦略決定へと一線を超えてしまうのだ。

決めるのは誰か?

金融市場に参加し株を売買するかどうかは個人の自由だが、現実の都市空間で生きていくかどうかについて、私たちに選択権はない。公共の道路は公共の資産である。ひとりの市民として私は、公共の資産を平等に享受し、利用する権利を求めたい。もし都市が金融市場のようにスマート化され、そして優れた交通アルゴリズムを持っている誰かが、私が信号待ちしている間に自分だけ青信号で走り始めたら、私は顔を真っ赤にして怒るだろう。

私たちはすでに格差社会を生きているのか?

アルゴリズムによる格差は、すでにスマートフォンおよびデータプランを持つ者と、そうでない者の間に生まれている。これは公平だろうか?そうでないとすれば、この不公平は都市にどのような影響を与えているのだろうか?市民の平等性に根ざした、社会の一体感を弱体化させているだろうか?私の研究では、流体力学の技法を都市デザインに取り入れることで、来る気候変動に対応できる強靭さを都市に与えることを目指している。しかし私は、強靭な都市をつくる最も重要な礎となるのは、どのような複雑な計算機科学的手法などでもなく、社会の一体感、調和であることを知っている。テクノロジーが社会の調和を損なうことを許容するような都市は、とうていスマートであるとは言えない。

バランスを見極めること

一体感は市民の社会参加によって醸成され、また市民間の敬意の上に成り立つものである。そして敬意は、私たちのパブリックスペース(公共空間)における振る舞いを通して表現される。パブリックスペースは公共の資産であり、社会の一員である私たちがそこに立ち入ることに、何ら障壁があってはならない。私は、パブリックスペースは市民間の信頼の構築を促進できると考えているが、それは誰もが好きに立ち入って、好きに闊歩できるという条件が満たされた場合においてのみである。これは、市民参加に関するジェイン・ジェイコブズの以下の考えと似ている。

都市があらゆる人に何かを提供できるのは、それがあらゆる人の参加によってつくられるからであり、またあらゆる人の参加によってつくられる、その場合においてのみなのである。
——ジェイン・ジェイコブズ『The Death and Life of Great American Cities』(Random House、1961)

都市運営にまつわる判断をテクノロジーに委ねることと、統治のプロセスへの市民参加を増加させることのバランスを見出すことはとても困難だ。私たちの身体の意識的・無意識的な神経系の役割分担に、この問題の生物学的なアナロジーを見ることができる。人の脳の中に存在する意識的な神経系は、戦略的な意思決定を胃や腸の中の無意識的な神経系に委ねることはない。私たちは「何を食べるか」という決断を意識的に行なう。そして食べたものを「いかに消化(処理)するか」については、無数の連携した内臓運動を統括する無意識的なシステムに任せている。

意識的・無意識的な神経系の適切な役割分担は、途方もなく長い時間をかけた、自然淘汰と変異の積み重ねの果てに見出されたものである。同様の役割分担を都市について見出すのに、私たちに与えられた時間は短い。仮にバランスを間違え、テクノロジーに意思決定を委ねすぎたなら、それは市民としての社会的責任を放棄してしまったことに等しい。その結果は致命的なものになるだろう。

スマートな都市とは、優れた意思決定がなされる都市のことである。テクノロジーを活用して、よりよい意思決定を行なえる都市を実現する、最も確かな処方箋は以下の通りである——市民の活発な参加と議論を通して「何をすべきか」を決定し、そのうえでテクノロジーに「どうやるべきか」を任せるのだ。

アレックス・ウォッシュバーン
建築家・都市デザイナー。2014年までニューヨーク市都市デザイン局長として、高架鉄道跡地を再利用した公園ハイラインなど多数のプロジェクトを担当。現在はスティーブンス工科大学理工学部教授として、災害や気候変動に対応できる強靭さを都市に与える研究に従事。ブルックリン在住。

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