1. はじめに

竹内雄一郎

この冊子は、情報技術を含むさまざまな先端技術がこれからどう都市を変えていくか、変えていけるかについて、いくつかの視点を提供するものだ。

21世紀は都市の世紀、とはよく耳にする言葉だ。国連の調査によれば、2008年から2009年にかけてのどこかの時点で、全世界の人口の半数が都市に住むようになった。主にアジアやアフリカの新興国で、数百万人規模あるいはそれ以上の、新しい都市がいくつも誕生している。今世紀の半ばには世界人口は100億に迫るほどに膨れ上がり、その3分の2が都市居住者になると予想されている。各国で自由主義的な経済政策が広まるにつれて、グローバルな経済競争の主軸が国家間の競争から都市間の競争に移っていくとも言われている。

情報技術者の間では、かつてインターネットの普及と関連する諸技術の発展により、場所の持つ(少なくとも経済的な意味での)重要性は下がっていくとの考えが一般的だった。どこにいようと自由に情報のやり取りが行なえ、自由に他者とコミュニケーションを取れるようになれば、職種によっては田舎に住んでいても第一線の仕事ができるし、毎日オフィスに出社する必要もなくなるというわけだ。フランシス・ケアンクロスは、これを「距離の死」という言葉で表現した。今にして思えば、これは精緻な学術的な予測ではなく、技術者たちの願望を多分に反映したものだった。情報技術者は理想主義的な集団で、自分たちの開発する技術が人種間の格差、地域間の格差など、あらゆる格差の撤廃につながると考えたかったのだ。


実際のところ、場所の持つ重要性は近年さらに増しており、大都市の経済的優位性は強まっている。このことは定量的に示されている。情報技術におけるイノベーションの多くは相変わらずベイエリア(サンフランシスコとその周辺)から生まれるし、日本においても東京の一極集中の度合いは年々強まっている。先進国における産業構造の転換など、その具体的な理由についてはいろいろな説が出ているが——私の同僚の茂木健一郎によれば、人や情報との偶然の出会いを多く提供する都会の環境が、創造的な仕事に有利にはたらくとのことである——、いずれにせよ情報技術者たちの予想とは異なる形に世界は進化してきた。

文化的にも、都会と地方の間には新たな隔たりが生じつつある。世界中の大都市は良くも悪くも互いに近接してきており、単一のグローバル・カルチャーが誕生しつつある。サンフランシスコのIT企業に勤めるアメリカ人にとって、ロンドンやベルリンはオクラホマよりも近い。言語や振る舞いなどの違いはあるが、表層的なものだ。日本人でも、英語で自由にコミュニケーションを取れる人であれば、恵比寿からブルックリンに引っ越してもほぼ同じライフスタイルを維持できるだろう。都会と地方の隔たりに比べれば、東京とニューヨーク、東京とシンガポールの違いは小さなものになりつつある。


近年、スマートシティという言葉が世間を賑わせている。詳細は都市計画家であるアンソニー・タウンゼント(この冊子にも文章を寄稿してくれている)による著書、『Smart Cities: Big Data, Civic Hackers, and the Quest for a New Utopia』(W. W. Norton & Co., Inc. 2013)に詳しいが、情報技術を用いて都市の運営を効率化しようという考えはじつは新しいものではない。

オペレーションズ・リサーチという研究分野がある。組織運営や軍事作戦など多分野におけるさまざまな意思決定を、数学的な手法を用いて支援することを目指すものだ。20世紀の二度の世界大戦において、オペレーションズ・リサーチは兵站(ミリタリー・ロジスティクス)の最適化、すなわち最善な部隊の配置や物資の配分の決定などに利用され、成果を挙げた。このことに気をよくした専門家たちは、戦後、同様のやり方がより複雑なシステムである都市の運営にも応用できるのではないかと考え始めた。交通システムの設計や、警察署など各種施設の配置、ゾーニング策定などに、数学的最適化を活用する研究が流行し始めた。こうした試みを、MITのジェイ・フォレスターは「アーバン・ダイナミクス」と呼んだ。


今も昔も、アメリカは新しい考え方を取り入れるのが好きな国だ。アーバン・ダイナミクスも、米国のいろいろな都市で実行に移されたが、予想されたような成果を挙げることはできなかった。一部地域では、逆に悲劇を招いた。ジャーナリストのジョー・フラッドは、1970年代にニューヨークのブロンクスで最適化計算に基づいた消防署の再配置が行なわれた結果、消化活動が間に合わなくなり多くの人命が失われたと書いている。結果的に、1970年代の終わりを待つことなくアーバン・ダイナミクスは廃れてしまった。残ったのは、ゲーム「シムシティ」くらいのものだ(作者のウィル・ライトは、フォレスターの著書に影響されてこのゲームを開発したと述べている)。

情報技術の世界では、過去に失敗したアイデアや技術分野が、時代を超えて復活し再度流行する現象(「ブーム」と「バスト」の繰り返し)がしばしば見られる。例えば今世間は空前の人工知能ブームであるが、これはじつは3度目のブームだ。過去2度のブームがあったが、期待されたほどの成果が挙がらず「AIの冬」と呼ばれる不遇の時代を経験した。現在のスマートシティ・ブームも、アーバン・ダイナミクスの2度めのブームと見ることができる。1度めと同じ轍は踏まないだろうか?

技術は飛躍的に進歩している。フォレスターの時代にはインターネットも、スマートフォンも、ビッグデータもなかった。囲碁の世界チャンピオンに勝てるような人工知能も当然存在していなかった。そもそもコンピュータの計算能力が違う。ムーアの法則に従って、CPUの処理能力(正確には、集積回路上のトランジスタ数)は2年ごとに倍という驚異的なスピードで上昇し続けてきた。アーバン・ダイナミクスが都市の複雑さの前に敗れ去った、その原因が計算能力の欠如にあったのだとすれば、今回は違うと期待する根拠は確かに存在している。

また、単純な計算能力の向上といった量的な違いだけでなく、質的な違いもある。1960年代、70年代の人々にとって、情報技術とは乱暴に言えば「賢い機械」を実現する技術だった。しかし21世紀を生きる私たち、YouTubeやFacebookの時代を生きる私たちにとって、情報技術はメディアでもある。このことは、情報技術を都市の運営にどう生かすのか、根本的な方法論のレベルで新しい発想をもたらしている。例えば、Wikipediaに見られるような大規模な参加型の仕組みを、市政や都市デザインへの市民参加を増大させる目的で使おうといった発想が出てきている。「賢い機械」による効率的な都市の統治というイメージに縛られる必要はないのだ。

このような試みが成功するかどうかはわからない。気鋭の批評家エフゲニー・モロゾフが言うように、安直な技術万能主義に対して私たちはつねに懐疑的であるべきだ。技術者の論理や、IT企業の論理を優先しすぎてはならない。工学や科学の諸分野だけでなく、都市計画、建築、デザイン、市民アクティビズム、経済学など、多種多様な分野を巻き込んだ新たな学術・専門領域を生み出すという姿勢が求められるだろう。都市は興味深い実験の時代を迎えている。


正直に言うと、これは非常に個人的な冊子だ。この冊子を作ろうと思ったそもそもの理由は、情報工学の研究者である私が都市の未来に対してどのように貢献できるのか、私自身が理解を深めたいと考えたからだ。都市と技術に関する自分の考え、他の研究者や実務家の考え、関連する諸領域の動向などを簡潔にまとめ、それをいつでも参照できる形にしたかった。そうした個人的な動機から始まったこのプロジェクトだが、結果を見ると、こうしたトピックに興味を持つ人に有益な出発点を提供できる、とてもいい冊子ができたのではないだろうか。


本冊子は複数の専門家による、都市と技術の関係についてのエッセイの集合体だ。エッセイの執筆は、基本的に私自身の人間関係をたどって依頼したので、どうしても分野的および地域的な偏りが出てしまった。「Atlas of Future Cities」(未来都市の地図)などという大仰な題名をつけたのは早計だったかもしれない。より包括的な議論を目指すなら、グリーン・ビルディングを設計する建築家や、オンライン・メディアを街づくりに活用しようとしているアクティビスト、政治家やデベロッパーなどにも話を聞くべきだろう。新興国からの視点も必要だ。しかし、このようなさまざまな不備や限界がこの冊子にはあるものの、比較的面白い、多様な視点が集まったと思う。

最初のエッセイを書いてくれたのは、前述のアンソニー・タウンゼントだ。MITで都市計画の博士号を取得した彼は、今から15年以上前に携帯電話の普及が都市に与える影響を予測した先駆的な分析を行ない、その名を知られるようになった。今ではスマートシティに関する優れた論客として、執筆、講演、コンサルティングなど幅広い活動を行なっている。彼の文章はスマートシティという概念の全体像、そこに包まれる具体的な技術や方法論の数々を俯瞰するものだ。

二つめのエッセイはMIT SENSEable City Lab代表のカルロ・ラッティ、そして昨年5月まで彼の下で働いていた研究員のマシュー・クローデルが共同で書いてくれた。ラッティは研究者であると同時に学外に事務所を主宰する建築家でもあり、彼が率いるMITのグループは、学際的かつ芸術的なやり方で先端技術を都市の分析や改善に役立てようとしている。彼らの文章は都市を構成する重要な一要素である、交通システムの過去と現在そして未来について説明したものだ。

三つめのエッセイは、アレックス・ウォッシュバーンによるものだ。生粋の都市デザイナーである彼は、以前はニューヨークにおいて市の都市デザイン局長を務めていた。今や世界各地で模倣されている高架鉄道の跡地を再利用した公園ハイラインは、彼の代表的な仕事である。(現在は工科大学で教鞭をとっているものの)元来技術に対して懐疑的な見方をする彼は、技術に何ができて何ができないか、その可能性と限界を浮き彫りにする素晴らしい文章を提供してくれた。

四つめは、ほかのエッセイとは大分趣向が異なるが、ベルリン在住のアーティスト、オラファー・エリアソンが短い文章を寄稿してくれた。インスタレーション・アートの作家として世界的に有名な彼は、近年建築物や公共空間の設計にも乗り出している。彼の文章は(空気を読まず?)技術とは特に関係のないものになっているが、それがかえって都市を語る上で欠かせない、視点の多様性をこの冊子に与えてくれていると思う。

五つ目は、私自身が書いた文章である。現状、スマートシティに関する議論の多くは、(さまざまなセンサなど)すでに存在するテクノロジーをいかに都市に便益をもたらすよう転用するかに焦点をあてている。情報工学の研究者である私は、それに対していまだ研究段階の「将来実現するかもしれない」技術が、現在の議論の枠を超えた形で都市を変えられる可能性について書いた。本冊子の中で、最も技術的に突拍子のない、夢物語のような文章だ。

これらのエッセイの後、短い鼎談の記録を載せている。「CCハウス」などの活動で知られる建築家の吉村靖孝、IoT(Internet of Things、モノのインターネット)研究で著名な東京大学情報理工学系研究科准教授の川原圭博、そして私の3人によるものだ。

最後に、あとがきを書いてくれたのは、サンタフェ研究所のルイス・ベッテンコートだ。物理学者の彼はかつて原初の宇宙の謎を解明する理論的な仕事をしていたが、今はそうした物理学的な手法を都市の分析に用いることに興味を移している。人文科学や社会科学の一派ではない、新しい都市科学を切り拓くパイオニアだ。彼は東京について、非常に美しい文章を書いてくれた。彼自身の研究についてはほとんど触れられていないが、革新的な内容なので、ぜひ『Nature』や『Science』に掲載された論文を読んでいただききたい。


前置きはこれくらいにしよう。21世紀の世界を形作る、最も重要なテーマについての議論を始めよう。

竹内雄一郎
1980年トロント生まれ。計算機科学者。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所研究員、および科学技術振興機構さきがけ研究者。東京大学工学部卒業、同大学院新領域創成科学研究科博士課程修了、ハーバード大学デザイン大学院修士課程修了。情報工学と建築・都市デザインの境界領域の研究に従事。

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